近代吟詠の祖 木村岳風
近代吟詠の祖 木村岳風
恩人 伊藤長七
新設:2020-06-16

岳風先生と伊藤長七の絆

 伊藤長七から松木利次への助言

松木利次は、諏訪中学を中退後、数々の事業を試みては失敗を重ねた末、27才の時、助言を求めて五中校長であった郷土の先輩の伊藤長七を訪ねました。
長七先生は「松木君には詩吟の天分があるので、詩吟普及を通して青少年育成に努め、一派をなせ」との趣旨の助言をしました。
この言葉が契機となり、松木利次は木村岳風と名乗り、「詩吟」を普及させるために厳しい全国行脚を続けて、多くの詩吟愛好者や吟詠家を育てました。

 木村岳風から闘病中の長七への見舞状

木村岳風は伊藤長七を恩人と仰ぎ、厳しい全国行脚の中にあっても、入院加療中の長七先生宛に全国行脚の報告を兼ねた見舞状を幾度も送りました。

 木村岳風の追善琵琶歌謹作と演奏

伊藤長七が亡くなった約1年後、2人の故郷の上諏訪で信陽新聞社が主催した『琵琶と詩吟の夕べ』において、木村岳風が自ら作った琵琶歌「嗚呼伊藤長七先生」を、弾じ吟じました。

木村岳風が伊藤長七を恩師と回想

日本詩吟学院岳風会刊『木村岳風(岳風伝)』には、木村岳風が伊藤長七を恩人として回想した文章が載っている。それを紹介させていただく。
『木村岳風(岳風伝)』は、「日本詩吟学院岳風会」が「日本詩吟学院」と名称が変わった後も頒布されている。


 木村岳風が伊藤長七を恩師と仰ぐ文(1)
 詩吟の指導精神 奨励行脚を省みて(抜粋)

(日本詩吟学院岳風会刊『木村岳風(岳風伝)』より、初出は昭和13年9月『吟 道』第5号)
<注>赤色太文字は、伊藤長七に特に関連した箇所


私は恩師故伊藤長七先生の御言葉が動機となり、朗吟報国に志してから、10年余り全国詩吟奨励行脚を続け、その間全国各地の学校を歴訪して、詩吟の講習奨励に努めた。

尤も当初は、各地の朗吟研究が主なる収獲であって、詩吟という熟語すら判らぬ生徒が多かった当時の事とて、立派な紹介状を持参しても時代遅れの厄介者と敬遠される方が多く、実績が挙がらなかった。
そこで、多くの体験から、先ず聞かせるに限ると知った。(以下略)

 木村岳風が伊藤長七を恩師と仰ぐ文(2)
 全国朗吟奨励 行脚の思い出(抜粋)


東京府立五中校長時代の伊藤長七先生 写真提供:伊藤家
東京府立五中校長時代の伊藤長七
写真提供:伊藤家


(日本詩吟学院岳風会刊『木村岳風(岳風伝)』より、初出は昭和25年10月20日発行『吟友』)
<注>赤色太文字は、伊藤長七に特に関連した箇所


大正の初期、私が諏訪中学に通い始めた頃は、特に偉人傑士の伝記を読むことが好きで、よく地蔵寺の清水の滝にかかって愛宕山の百数十の石段を攀じ登り、眺望のよい山頂の芝に横たわって伝記を読み、老松の高く風に吠えている林の中を散歩しながら「少年老い易く、学成り難し、一寸の光陰軽んずべからず」と吟じ、(中略)

遂に中学3年の春、雑誌日本少年の刺激を受けて、大成功を夢み、故郷を出奔して上京、新聞配達をしながら勉学を志し「男児志を立てて郷関を出ず、学若し成らずんば死すとも還らず」と吟じつつ努力したまでは先ず良かったのですが、その後、激しい大都会の空気に動かされ、一方当時極端に没落しつつあった家運を少しも早く挽回しようと成功を焦ったため、つぎつぎと計画した企ては尽く失敗に帰して世の中に行き詰りを感じ、全く自信を失ってしまいました。

一日、長善館に在館当時から敬慕していた伊藤長七先生をお訪ねして相談申し上げた時、長七先生の言われたお言葉が動機となって、私は180度の転向をして、今まで単に趣味としていた詩吟によって、些かでも世の中の役に立つ仕事をしてみたいと考え、伊藤先生の胆入りで国樂振興会を起し、その詩吟奨励部長として、昭和の初めから、詩歌の朗吟研究とその普及を目的として、全国行脚を始めました。伊藤五中校長の紹介状と、片倉武雄重役の紹介状を持って片倉合名会社の全国の支店や出張所を足場にし、各地方に残る詩歌の朗吟調の研究を重ねつつ、その地方所在の中学校を奨励の対象として私の行脚は幾年も続けられました。(以下略)